アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品「ラブレス」を試写会で観た。

現在のロシアにおける中流社会の夫婦の姿を描く。


満足度 評価】:★★★★☆

この主人公夫婦の行動が良いとか悪いとかではなく、人の心に何が起きているのかについて、いろいろと考えさせられた作品だった。

そして、その犠牲になるのは、何の罪もない子供たちだと言う現実に切なくなる話だった。



この感想には結末についてのネタバレを含みます。映画をご覧になってからお読みください。


「ラブレス」予告編 動画

(原題:Nelyubov)






キャスト&スタッフ


出演者

〇マルヤーナ・スピヴァク

〇アレクセイ・ロズィン


監督・脚本

〇アンドレイ・ズビャギンツェフ


2017年製作 ロシア・フランス・ドイツ・ベルギー合作映画



ラブレス



あらすじ


一流企業に勤務するボリス(アレクセイ・ロズィン)とジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)の夫妻は、離婚が決まり、お互いに新しいパートナーと新しい人生を始めようとしていた。

新生活を始めるにあたり、二人は12歳になる息子のアレクセイの親権について話し合うが、互いに「面倒な息子」を押し付け合い、ボリスはアレクセイを寄宿舎に入れることで、決着しようとしていた。

ところが、その本人であるアレクセイは、両親が「面倒をみるなんて御免だ」という話を親の知らないところで聞いていたのだ。

その後、夫婦は互いに家に帰らず恋人とそれぞれ夜を過ごし、ジェーニャが早朝に家に帰って寝ているとアレクセイの学校から電話があり

「アレクセイが二日間無断欠席をしています」と言われ、ジェーニャは、その時初めてアレクセイが家にいないことに気付く…。



ラブレス2



感想(ネタバレあり)


「子供なんかいても邪魔なだけ」と考える心が荒んだ夫婦



離婚が決まり、新生活を始めようとしている夫婦が、二人の間にいる12歳の息子を「引き取りたくない」と言う。

そんなことを言うなんて、誰がどう見ても酷い両親だ。

しかし、内心では「子供なんて」と思っている親たちがいるのも現実

本心では「子供なんて面倒だな」と思っていても、なかなか口にしない夫婦が多い中、この映画では思ったことをそのまま素直に言ってしまう。

この映画の面白さは、その夫婦の日常を包み隠さずに描く赤裸々さにあった。



なぜ、ジェーニャとボリスはそんな酷いことを言うのだろうか。



まず、彼らの夫婦生活には、全く愛情が感じられない

愛情があるどころか、口を開けばいがみ合い、「憎悪」の塊になってしまう。

本当に、彼らはかつて愛し合った時期があったのかと思うぐらい、憎しみ合っている。



そんな二人だからこそ、アレクセイを側においておくと、互いのことを思い出し、憎しみが湧き上がってくるのではないか。

だから、「今のところ」愛情ある新しい家庭にアレクセイを入れたくないのではないかと思った。



それにしても、子供はそんな「両親の事情」とは全く関係がないはずだ。

子供を作った以上、育てる義務が彼らにはあるのだから。



そして、アレクセイは失踪。

その時、初めてアレクセイは自分の息子だと気づくのである。

そこには、なんとも心が荒んだ、心の貧しい夫婦の姿があった



ラブレス3


ソ連時代の共産主義が人々の心に与えた影響



このジェーニャとボリスの夫婦を見ていて思うのは、自己中心的で強欲であるということ。

MacのパソコンとiPhoneを使い、子供の世話よりも、自分が恋人と過ごす時間を優先する。

ジェーニャはひたすらSNSをチェックし、見た目の美しさにこだわる。

とにかく「より裕福な生活」を手に入れたがるのだ。



そんなジェーニャの姿は、私たちの日常とあまり変わらない。

私たちだって、日頃からまめにエステに通い、SNSをまめにチェックして、見た目の美しさにこだわる。



しかし、ジェーニャからは確実に「愛情」が欠けている

夫や、息子や、母親に対してまでも「愛情」を持つことができない。

新しい恋人には「愛している」と言葉で言ってはいるものの、もしも、彼が裕福な人ではなくても「愛している」と言うだろうか



そんなジェーニャを見て、長い間続いた共産主義が人々の心に影響を与えたのではと思った。

あまりにも長い間、「人と同じであること」や「貧しくあること」や「当局が絶対であること」を強要し続けた共産主義は、人々の心から豊かさを失ってしまったのではないかと思ったのだ。



その思いを象徴しているのが、ジェーニャと母の関係だった。

夫のボリスに言わせれば「ミス・スターリン」だというジェーニャの母は、人里離れた田舎町に高い壁を立てた要塞のようなところにある、とても貧しい小屋で暮らしている。

そこへアレクセイが行っているかもしれないとジェーニャとボリスが訪ねていくと、たちまち罵り合いが始まってしまう。



今はとてもリッチで美しい身なりをしているジェーニャも、幼い頃は、こんなに貧しい生活をしていたのかと思うのだが、30年ほど前は、みんなそんな生活をしていたのだ。

ジェーニャの母だけが特別な存在ではなく、国の急激な変化についていけず、取り残された人々の姿を表している



だからといって、現在、都会の日常生活から共産主義が完全に抜けたというわけでもない。

ボリスが勤務している会社では、ランチの時間に全員が一斉に同じ場所で、全く同じものを食べる。

一糸乱れぬその姿は、とても異様だった。



それに、ボリスが離婚するにあたって最も気にしていたことは、息子のことではなく上司の反応だった

ボリスの会社では「上司の命令が絶対」であり、「上司の機嫌を損ねたらクビ」なのだ。

それは、共産党時代のソ連の姿そのままではないか。



今まで国から抑圧されてきた人々が、急に解放されたことで、今まで手に入れられなかったもの(たとえばiPhoneのようなもの)をなんでも欲しがるようになるが、心はその豊かさについていけず、貧しいままなのではないかと思った。



そこで「本当の豊かさとは何か」と思うのだ。

物欲や性欲が満たされることが豊かさではない

心にゆとりがあって、相手を思いやる気持ちがあってこそ、「豊か」な生活なのだ。



ラブレス4


システム化された家出人捜索ボランティアから見えてくるもの



その「長すぎた共産主義がもたらした心の貧しさ」が示しているのが「犯罪の増加」だった。



ジェーニャとボリスは、アレクセイの失踪について警察に届けるが、警察は「事故や犯罪が多すぎて家出人の捜索まで手が回らない」と言って、捜索しようとしない。

これは、アメリカ映画などを見ているとよく出てくるセリフだけど、貧富の差が激しくなったからこそ、犯罪は増えるのだ。



そして、家出人捜索をできない代わりに紹介されたのが、「家出人捜索ボランティア」だった。

私は、この「家出人捜索ボランティア」のシステム化された行動力には感心した

彼らはすぐに状況を把握し、何をすべきかを決め、行動に移す。



その行動力から、彼らは「家出人捜索」について経験が豊富で、これまでの積み重ねからシステム化されたものだと思った。

ということは、それほどまでに、現在のロシアではアレクセイのように「突然いなくなってしまう子供たち」が多いということであり、アレクセイのように「家にいられなくなった子供たち」が多いということである。



ジェーニャやボリスはソ連時代の共産主義の影響を受けて育った世代であるが、アレクセイは部屋にハリウッド映画のポスターを張るような、脱共産主義の時代の子供たちである。

けれど、そんな次世代の子供たちにも、親世代の心の貧しさが悪影響を与えているように思う。



ラブレス5


ウクライナの内戦を傍観するロシア国民



そして、この物語の結末であるアレクセイの行方は観客にゆだねられている。



私が考えたのは二つの結末だった。



一つは、アレクセイは亡くなっていて、最後にモルグで観た焼けただれた死体だったという考え方。

あの時、ジェーニャはしばらく間を置いた後、「アレクセイには胸にほくろがあるから、この子はアレクセイではない」と言って泣き崩れた。

しかし、その後DNA鑑定を求められた時「この子は絶対に違うからDNA鑑定する必要がない」と言って、DNA鑑定を拒否する。



そこに謎が残る。

本当にアレクセイではないという自信があるなら、DNA鑑定をすべきではないのか。

もしも、厄介払いでアレクセイの存在を闇に葬るために、本当はアレクセイだったのに「アレクセイではない」と言っていたとしたら…。

だとすれば、彼らがその後、アレクセイが帰ってくるはずの家を売ってしまったことも説明がつく。



しかし、そうではなく、もしも、この物語に希望を持ちたいなら、彼らから遠く離れた土地に逃げ切ってどこかで元気に生きているという結末

あの時、泣き崩れたジェーニャの涙が本物だと素直に受け取ったなら、どこかで生きているはずだ。



しかし、あの時「私の子はあんたになんか絶対渡さないんだから」といって泣きわめいたジェーニャの涙が本当だとしたら、その後、アレクセイの部屋をそのまま残すことなく、売ってしまうことなんてできるんだろうか

売ってしまったら、アレクセイの帰る場所がない。

それは「アレクセイのことは諦めた」という彼らの意思表示に見える。

だからこそ、あの時のモルグの遺体はアレクセイだったのでは…と思ってしまう。



そして、物語はウクライナの内戦を伝えるニュースで終わる。



ウクライナは、現在、親ヨーロッパの西側と親ロシアの東側で内戦が起き、かつての冷戦と同じような状況になっている。

ロシアの国民は、そのニュースで虐げられたウクライナ国民の姿を見ながら、かつてのソ連時代の自分たちの姿を見ている。

しかし、あの頃には二度と戻りたくないという思いから、かつては同じ国で、現在は隣の国で起きているいることにも関わらず、まるで他人事のように傍観しているのである。




ロシアの国民がウクライナを切り捨てたように、ジェーニャとボリスはアレクセイを無残にも切り捨てたのではないのか。

アパートの部屋もキレイにリフォームされてしまったアレクセイがそこに生きていたという証は、池のふちに立つ木にたなびく新体操のリボンだけなのである。






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