福山雅治主演の映画「三度目の殺人」を映画館で観た。
ある殺人事件の裁判を通じて、裁判所・司法制度のあり方について問う。

【満足度 評価】:★★★★☆(4.5)
とても面白い映画だった。
一番目の殺人で実の娘に「殺人者の娘」というレッテルを貼ってしまい
二番目の殺人で、娘の「お父さんなんか死ねばいいのに」という願いを叶え
三番目では、自分の命を神に捧げ、『自己犠牲』の精神で娘の輝く未来を守った殺人犯の三隅。
三隅の言う通り、『この世は理不尽』で、本当の悪を裁けるのは神だけなのか…。
その真相は、神様がだけが知っている…。
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◆【映画パンフレット】 三度目の殺人
〇役所広司
…(「孤狼の血」、「オー・ルーシー!」、「蜩ノ記」、「わが母の記」など)
〇広瀬すず
…(「SUNNY 強い気持ち・強い愛」、「怒り」、「海街diary」など)
〇満島真之介
…(「散歩する侵略者」など)
〇市川実日子
…(「シン・ゴジラ」など)
〇吉田鋼太郎
…(「万引き家族」、「誰も知らない」、「歩いても 歩いても」、「海街diary」など)
2017年製作 日本映画
弁護士の重盛(福山雅治)は、弁護士仲間(吉田鋼太郎)から、ある殺人事件の弁護を依頼される。
容疑者である三隅(役所広司)の供述が二転三転して困っているという。
三隅は、勤務している食品加工工場の社長を殺したとして逮捕され、殺人犯として服役した過去もあるため、刑の重さによっては死刑も免れない。
そこで、重盛は情状酌量で刑を軽くし、死刑を避ける線で裁判の計画を練るのだが…。

殺人犯である三隅を突き動かした原動力は、この世の理不尽さだった。
裁判所は、本来ならば悪事を裁く場所である。
刑事事件には、事件の犯人だと思われる容疑者がいて、容疑者を訴える側の検事と容疑者の権利を守る側の弁護士が、お互いに証拠を出し合って容疑者が犯人かどうかを争い、両者の言い分を聞いた裁判官が判決をくだす。
しかし、実際のところ、事件の本質を見ず、容疑者の言い分も適当に聞き流し、検事と弁護士の二者が自分にとっても最も都合の良い判決を要求し、裁判官は両者の要求を聞いた上で、最も妥当なところで判決は決まってしまう。
この映画では、容疑者の供述が二転三転し、事件の本質がつかめないまま、弁護士は裁判に突入する。
雲をつかむような状態のまま、裁判は進み、最後には判決がくだされる。
容疑者が供述を変えたにも関わらず、判決が変わらないのなら、裁判とは、一体誰のためのものなのか。
裁判で悪が裁かれないのなら、一体、誰が裁くというのか。
裁判とは、一体誰のために行われるものなのか。
殺人犯の三隅は、その理不尽さに苦悩し、自ら天罰をくだす道を選択するのだ。

弁護士の重盛も、この映画を観ている観客も、殺人犯である三隅の供述に惑わされてしまう。
殺人犯という程に凶暴な印象はなく、とても穏やかで真面目そうに見える。
しかし、話が二転三転していくのだ。
始めは「酒を飲んでいて、社長の金が欲しくなって殺した」と言い、それが、その後、「社長の奥さんに頼まれて殺した」という。
そして、しまいには「私は殺してない」と言い出すようになる。
そんなふうに、のらりくらりと人を困らせる三隅だが、最初から最後まで一貫して揺るがないことがある。
それは、『娘に対する想い』である。
彼が『一度目の殺人』で実刑判決を受けた時、まだ幼い娘がいた。
その娘は、父が実刑判決を受けた後、北海道の田舎町で『殺人犯の娘』として30年間生活し、その結果、「お父さんなんか死ねばいいのに」が口癖になる。
三隅は、刑務所の中で、娘に悲しい思いをさせてしまったことを悔いながら生きるようになる。

三隅の娘と同じく、「お父さんなんか死ねばいいのに」と思いながら生きていたのが、三隅が殺した社長の娘・咲江(広瀬すず)である。
刑務所にいて、娘にしてあげられなかったことを、咲江に対してしてあげたい。
そう思ったに違いない。
やがて、三隅は咲江から悩みを聞かされるようになる。
それは、咲江が父親から性的暴行を受けているという衝撃の事実だった。
実の娘同然の咲江が暴行されていると聞いて、三隅は社長のことが許せなくなった。
娘を暴行していた社長こそが、三隅の言う「生きる価値のない人間」のことである。
それが、二番目の殺人の動機となった。
しかし、もしも、咲江と社長の関係を警察に訴えようものなら、咲江は裁判で証言することになる。
罪のない被害者が、なぜ、苦悩を抱えて生きなければならないのか。
その理不尽さに突き動かされた三隅は、神に代わって社長に天罰をくだしてしまう。
そうして、三隅は二番目の殺人で、咲江の「お父さんなんか、死んでしまえばいいのに」という願いを叶えることになる。
その三隅と咲江の関係を見て、三隅に自分の姿を重ね合わせたのが、弁護士の重盛である。
重盛は妻と離婚し、娘のそばにいられないことに悩まされていた。
『娘と会う時は、彼女が万引きをして捕まった時だけ』という悲しい関係の二人。
彼女にとって『万引き』は、お父さんに会いたい時のサインなのである。
忙しく仕事に追われながらも、常に心の片隅では娘のことを考える重盛にとって、三隅の動機は他人事ではなかった。
刑務所の面会場で向かい合った二人は、時折、二人の間にある透明のついたてが消え去り、二人の姿が重なる。
弁護士と容疑者の関係ではあるけれど、二人は表裏一体で、共に「娘への想い」でつながっていた。
お互いの地位に違いはあっても、心の中の思いに大きな違いはない。
重盛だって、娘が誰かに酷い目に遭わされたら、きっと殺したいと思うだろう。
裁判では、それ相応の罰が与えられないことを誰よりもよく知っているはずだ。
共に、娘を守れない父親同士だからこそ、相通じるものを感じているに違いない。

三隅にとって、一番目と、二番目の殺人の間で、大きく違うのは『神』の存在である。
刑務所で『神の教え』に目覚める人はとても多いからだ。
仮出所した三隅は、重盛の父である裁判長に手紙を書く。
決定的な証拠もなく、状況証拠だけで実刑を受けてしまった三隅は、きっと裁判長を恨んでいたはずだ。
それなのに、裁判長に手紙を書いたのは、神の教えに基づき、「裁判長を許した」ということなのだと思った。
彼がキリスト教に入信しているのは、カナリアの墓や社長を殺した跡の十字を見ても明らかである。
その三隅が、裁判の後半で急に供述を変え、「私は殺していない」と言い出してしまう。
「情状酌量」の線で減刑を希望していた重盛にとって、それは許せないことだった。
しかし、その時すでに三隅に自分の姿を重ね合わせていた重盛は、冷静な判断ができなくなってしまっていた。
重盛は、三隅の「殺していない」という主張を信じ、裁判長に『無罪』を訴える。
この時、重盛は三隅のその『無罪』の裏にある真意を理解した上で、「そうさせてあげたい」と思ったんだろうと思う。
その理由は、裁判後の最後の三隅と重盛の面談で明かされる。
結局、三隅は裁判長から「死刑」の判決を受ける。
この時、三隅にとっての『三度目の殺人』が成立したのだ。
最後に殺したのは、自分自身だったのだ。
三隅が社長を殺す前から望んでいたのは、咲江に恥ずかしい証言をさせないことだった。
実の娘のように思っていた咲江の口から、「父親から性的暴行を受けていた」なんて衝撃的なことを言わせないこと。
「それがどんな風に行われていたか」なんてことを、咲江に裁判所で語らせないこと。
もしも咲江がそんなことをしたら、実の娘が『殺人犯の娘』と言われたのように、後ろ指を指されながら一生を終えなければならない。
咲江にそんな酷い一生を送らせたくない一心で、三隅は自分が死刑になることで裁判の論点を変え、咲江を証言台に立たせないようにし、最後まで咲江の未来を守り通したのだ。
それは、キリスト教で最も美しいとされる「自己犠牲」の精神である。

この事件で起こったことを整理して考えてみると、
本当の『悪』は、娘を暴行していた社長である。
しかし、本来裁かれるべき『悪』は被害者として登場する。
裁判ではその悪の真相に一切触れることなく終了してしまう。
三隅は、その理不尽さを重盛に訴え続けていた。
しかし、咲江が辛い思いをせずに、咲江の父親を裁くことは、今の法律ではできない。
重盛もまた、そこに弁護士としての限界を感じ、最後は三隅の思うままにさせてしまう。
一番目の判決で有罪判決を受けた三隅は、「裁判所は、本当の悪を裁かない理不尽なところ」だと知り、
その上、一人残した娘に悲しい思いをさせてしまい
二番目の殺人で、我が子同然である咲江の願いを叶え
三番目の殺人では、『自己犠牲』の精神で自らの命を神に捧げ、これまでの自分の悪行を浄化する。
その三隅の行動を通して浮かび上がってくるのは、「善悪」より「勝ち負け」を優先する裁判所の在り方である。
容疑者が何を供述しようがしまいが、裁判官、検事、弁護士の間で『判決は決まっている』ということ。
それを三隅は、一番目の裁判で学習したから、本物の悪の裁きは神様にお願いしようと思った。
それが三隅の動機であり、だからこその十字架だった。
三隅は、裁判所では『死刑判決』を受けたけれども、『自己犠牲』をしたことで、ようやく自分にも価値があることができたと思ったのではないだろうか。
判決後の重盛の面会で、とても清々しい表情で現れた三隅に、その思いが現れている。
人殺しをして、三隅の魂は本当に救われたのか。
始めからゴールが決まっているなら、裁判を行う意味があるのか。
その真実は、神様だけが知っている。
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【満足度 評価】:★★★★☆(4.5)
とても面白い映画だった。
一番目の殺人で実の娘に「殺人者の娘」というレッテルを貼ってしまい
二番目の殺人で、娘の「お父さんなんか死ねばいいのに」という願いを叶え
三番目では、自分の命を神に捧げ、『自己犠牲』の精神で娘の輝く未来を守った殺人犯の三隅。
三隅の言う通り、『この世は理不尽』で、本当の悪を裁けるのは神だけなのか…。
その真相は、神様がだけが知っている…。
目次
「三度目の殺人」予告編 動画
更新履歴・販売情報
・2017年9月21日 映画館で観た感想を掲載。
・2018年7月7日 WOWOWでの放送に合わせて加筆・修正。
・2019年10月26日 「土曜プレミアム」での放送に合わせて加筆・修正。
現在、ネット配信、DVD共に販売中。
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監督 是枝裕和 キャスト 福山雅治、役所広司、広瀬すず、吉田鋼太郎、斉藤由貴、満島真之介 新品価格 |

キャスト&スタッフ
出演者
〇福山雅治〇役所広司
…(「孤狼の血」、「オー・ルーシー!」、「蜩ノ記」、「わが母の記」など)
〇広瀬すず
…(「SUNNY 強い気持ち・強い愛」、「怒り」、「海街diary」など)
〇満島真之介
…(「散歩する侵略者」など)
〇市川実日子
…(「シン・ゴジラ」など)
〇吉田鋼太郎
監督
〇是枝裕和…(「万引き家族」、「誰も知らない」、「歩いても 歩いても」、「海街diary」など)
2017年製作 日本映画
あらすじ
弁護士の重盛(福山雅治)は、弁護士仲間(吉田鋼太郎)から、ある殺人事件の弁護を依頼される。
容疑者である三隅(役所広司)の供述が二転三転して困っているという。
三隅は、勤務している食品加工工場の社長を殺したとして逮捕され、殺人犯として服役した過去もあるため、刑の重さによっては死刑も免れない。
そこで、重盛は情状酌量で刑を軽くし、死刑を避ける線で裁判の計画を練るのだが…。

感想(ネタばれあり)
犯人の供述が二転三転しても、判決は落ちるべきところに落ちる
殺人犯である三隅を突き動かした原動力は、この世の理不尽さだった。
裁判所は、本来ならば悪事を裁く場所である。
刑事事件には、事件の犯人だと思われる容疑者がいて、容疑者を訴える側の検事と容疑者の権利を守る側の弁護士が、お互いに証拠を出し合って容疑者が犯人かどうかを争い、両者の言い分を聞いた裁判官が判決をくだす。
しかし、実際のところ、事件の本質を見ず、容疑者の言い分も適当に聞き流し、検事と弁護士の二者が自分にとっても最も都合の良い判決を要求し、裁判官は両者の要求を聞いた上で、最も妥当なところで判決は決まってしまう。
この映画では、容疑者の供述が二転三転し、事件の本質がつかめないまま、弁護士は裁判に突入する。
雲をつかむような状態のまま、裁判は進み、最後には判決がくだされる。
容疑者が供述を変えたにも関わらず、判決が変わらないのなら、裁判とは、一体誰のためのものなのか。
裁判で悪が裁かれないのなら、一体、誰が裁くというのか。
裁判とは、一体誰のために行われるものなのか。
殺人犯の三隅は、その理不尽さに苦悩し、自ら天罰をくだす道を選択するのだ。

娘を守れない父の想い
弁護士の重盛も、この映画を観ている観客も、殺人犯である三隅の供述に惑わされてしまう。
殺人犯という程に凶暴な印象はなく、とても穏やかで真面目そうに見える。
しかし、話が二転三転していくのだ。
始めは「酒を飲んでいて、社長の金が欲しくなって殺した」と言い、それが、その後、「社長の奥さんに頼まれて殺した」という。
そして、しまいには「私は殺してない」と言い出すようになる。
そんなふうに、のらりくらりと人を困らせる三隅だが、最初から最後まで一貫して揺るがないことがある。
それは、『娘に対する想い』である。
彼が『一度目の殺人』で実刑判決を受けた時、まだ幼い娘がいた。
その娘は、父が実刑判決を受けた後、北海道の田舎町で『殺人犯の娘』として30年間生活し、その結果、「お父さんなんか死ねばいいのに」が口癖になる。
三隅は、刑務所の中で、娘に悲しい思いをさせてしまったことを悔いながら生きるようになる。

二番目の殺人で、娘の願いを叶える。「お父さんなんか死ねばいいのに」
三隅の娘と同じく、「お父さんなんか死ねばいいのに」と思いながら生きていたのが、三隅が殺した社長の娘・咲江(広瀬すず)である。
三隅は、実の娘と同じく足が悪い咲江に自分の娘を重ね合わせるようになり、まるで我が子のように世話を焼くようになるのだ。
刑務所にいて、娘にしてあげられなかったことを、咲江に対してしてあげたい。
そう思ったに違いない。
やがて、三隅は咲江から悩みを聞かされるようになる。
それは、咲江が父親から性的暴行を受けているという衝撃の事実だった。
実の娘同然の咲江が暴行されていると聞いて、三隅は社長のことが許せなくなった。
娘を暴行していた社長こそが、三隅の言う「生きる価値のない人間」のことである。
それが、二番目の殺人の動機となった。
しかし、もしも、咲江と社長の関係を警察に訴えようものなら、咲江は裁判で証言することになる。
裁判で証言するということが、どんなに酷いことで、それが咲江の一生の心の傷になることを三隅が一番よく分かっていた。
罪のない被害者が、なぜ、苦悩を抱えて生きなければならないのか。
その理不尽さに突き動かされた三隅は、神に代わって社長に天罰をくだしてしまう。
そうして、三隅は二番目の殺人で、咲江の「お父さんなんか、死んでしまえばいいのに」という願いを叶えることになる。
その三隅と咲江の関係を見て、三隅に自分の姿を重ね合わせたのが、弁護士の重盛である。
重盛は妻と離婚し、娘のそばにいられないことに悩まされていた。
『娘と会う時は、彼女が万引きをして捕まった時だけ』という悲しい関係の二人。
彼女にとって『万引き』は、お父さんに会いたい時のサインなのである。
忙しく仕事に追われながらも、常に心の片隅では娘のことを考える重盛にとって、三隅の動機は他人事ではなかった。
刑務所の面会場で向かい合った二人は、時折、二人の間にある透明のついたてが消え去り、二人の姿が重なる。
弁護士と容疑者の関係ではあるけれど、二人は表裏一体で、共に「娘への想い」でつながっていた。
お互いの地位に違いはあっても、心の中の思いに大きな違いはない。
重盛だって、娘が誰かに酷い目に遭わされたら、きっと殺したいと思うだろう。
裁判では、それ相応の罰が与えられないことを誰よりもよく知っているはずだ。
共に、娘を守れない父親同士だからこそ、相通じるものを感じているに違いない。

三番目の殺人。自分を殺して神にその身を捧げる-「自己犠牲」の精神-
三隅にとって、一番目と、二番目の殺人の間で、大きく違うのは『神』の存在である。
そこは明確には描かれていないけれども、一番目の殺人で刑務所に入った時に『神の教え』と出会ったのだろうと思った。
刑務所で『神の教え』に目覚める人はとても多いからだ。
仮出所した三隅は、重盛の父である裁判長に手紙を書く。
決定的な証拠もなく、状況証拠だけで実刑を受けてしまった三隅は、きっと裁判長を恨んでいたはずだ。
それなのに、裁判長に手紙を書いたのは、神の教えに基づき、「裁判長を許した」ということなのだと思った。
彼がキリスト教に入信しているのは、カナリアの墓や社長を殺した跡の十字を見ても明らかである。
その三隅が、裁判の後半で急に供述を変え、「私は殺していない」と言い出してしまう。
「情状酌量」の線で減刑を希望していた重盛にとって、それは許せないことだった。
ここで無罪を主張したら、「反省の色なし」と見られ、確実に死刑判決を受けてしまう。
しかし、その時すでに三隅に自分の姿を重ね合わせていた重盛は、冷静な判断ができなくなってしまっていた。
重盛は、三隅の「殺していない」という主張を信じ、裁判長に『無罪』を訴える。
この時、重盛は三隅のその『無罪』の裏にある真意を理解した上で、「そうさせてあげたい」と思ったんだろうと思う。
その理由は、裁判後の最後の三隅と重盛の面談で明かされる。
結局、三隅は裁判長から「死刑」の判決を受ける。
この時、三隅にとっての『三度目の殺人』が成立したのだ。
最後に殺したのは、自分自身だったのだ。
三隅が社長を殺す前から望んでいたのは、咲江に恥ずかしい証言をさせないことだった。
実の娘のように思っていた咲江の口から、「父親から性的暴行を受けていた」なんて衝撃的なことを言わせないこと。
「それがどんな風に行われていたか」なんてことを、咲江に裁判所で語らせないこと。
もしも咲江がそんなことをしたら、実の娘が『殺人犯の娘』と言われたのように、後ろ指を指されながら一生を終えなければならない。
咲江にそんな酷い一生を送らせたくない一心で、三隅は自分が死刑になることで裁判の論点を変え、咲江を証言台に立たせないようにし、最後まで咲江の未来を守り通したのだ。
それは、キリスト教で最も美しいとされる「自己犠牲」の精神である。

本当の悪は裁判では裁かれない。神に裁きをゆだねる三隅の想い
この事件で起こったことを整理して考えてみると、
本当の『悪』は、娘を暴行していた社長である。
しかし、本来裁かれるべき『悪』は被害者として登場する。
裁判ではその悪の真相に一切触れることなく終了してしまう。
三隅は、その理不尽さを重盛に訴え続けていた。
しかし、咲江が辛い思いをせずに、咲江の父親を裁くことは、今の法律ではできない。
重盛もまた、そこに弁護士としての限界を感じ、最後は三隅の思うままにさせてしまう。
一番目の判決で有罪判決を受けた三隅は、「裁判所は、本当の悪を裁かない理不尽なところ」だと知り、
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その三隅の行動を通して浮かび上がってくるのは、「善悪」より「勝ち負け」を優先する裁判所の在り方である。
容疑者が何を供述しようがしまいが、裁判官、検事、弁護士の間で『判決は決まっている』ということ。
それを三隅は、一番目の裁判で学習したから、本物の悪の裁きは神様にお願いしようと思った。
それが三隅の動機であり、だからこその十字架だった。
三隅は、裁判所では『死刑判決』を受けたけれども、『自己犠牲』をしたことで、ようやく自分にも価値があることができたと思ったのではないだろうか。
判決後の重盛の面会で、とても清々しい表情で現れた三隅に、その思いが現れている。
人殺しをして、三隅の魂は本当に救われたのか。
始めからゴールが決まっているなら、裁判を行う意味があるのか。
その真実は、神様だけが知っている。
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